昭和49年08月04日 特別奉修委員



(途中から)
 まあ、それでもてんぷらと言う事はそんなもんじゃぁないという意味なんですね、けれども本当な物じゃないです、私共の序列信者数といっても、それが本当と言う事じゃない、より本当を求めて行っての事ですから。
 けれども、まあ、例えばこうした特別奉修委員の方達の場合なんかは、まあ、本当なものじゃない、中でもまあ、一番本当なものと言う事じゃないでしょうかね。
修行が無い様になって来ておる。海老が無いようになっておると言う事、海老のお知らせは修行と仰る。
 ですから、ならどう言う事を持って修行とさせて頂くかと言う事、今合楽では火の行水の行と言う行的な事を、厳しくいけないと言われとりますけどね、だからそう言う修行では海老のてんぷらとは言えない、値打ちは無い。
 共々にその、海老のてんぷらと言うのはあれは、あのう修行と云う事は、例えば窮屈な所に味わいを感ずる修行と言う事です。窮屈な例えば思いをする時、例えばなら私共でも、あのうこうやって、この御結界でご奉仕しておる畳半帖から動かれんのですから窮屈ですよ。
 じゃ窮屈だけれども此処の中でなけりゃぁ味わえない有難さを感じておる様にね、皆さんのばあいだってそうです、そりゃぁあの今合楽の方には貧乏するする人はないと、まあ、言う事ですけれども、矢張りその百円のその日暮らし的な人もありゃぁ、千円のその日暮らし的な人もあるんです。
 ですから百円のその日暮らし的な人は、まあ、本当にあのう毎日限りなく百円は恵まれておると言う訳でしょうけれども、それは矢張り窮屈ですよね千円のその日暮らしよりも、けれどもそう言う中に愈々こう、味わいが解るという修行。
 私はあのう今何か、合楽ではもう修行はせんでも良い様な考え方に、間違った考え方をしとる人があるね。昨日火の行水の行と言った様な行から、もう言うならあのう自力の信心から、他力の信心。  
 言うならば神様のおかげで道を開かせて頂くと言う、実に楽な神様のおかげで道を開くとに、自分の我力で開くとじゃないですから、だからその楽な方をですね修行せんで楽と言う様な風に取る人があるんです。何人もあったんです実際お届けをするんです、けれどもそれは私は間違いだと思います。
 何処までも矢張り本当な物じゃないけれども、一つ最高の、まあ、海老のてんぷらと言うのは、てんぷらの最高の物とされておりますけど、本当のものじゃないけれども、ほんなもんじゃない中にも、矢張りあのうほんなもんであると言う印が見えないけん。
 為にはあのう海老のてんぷらには必ず、尻尾の所だけをころもを掛けてないですね、だから海老と言う事が解るです、だからその印と言う物がね、証と言う物が例えば本当の修行をさして頂いておると云う証だけは、いつも立てておいておかにゃぁいけないと言う事ね。
 そして今朝のご理解に繋がって来なけりゃならんのです、どうでも本当にあのう価値のある信心を目指さねばね。